声による物語空間の創出
物語のはじまり
はじめ物語は、口伝てで、声をとおして語られるものでした。
歴史が進むにつれ、物語は文字で記されるようになり、写本となって伝わり、印刷技術が発明されると、出版物として世にさらに広く伝わるように。
それでも、口承の文学はまだまだずっと口承のまま、吟遊詩人のような人や、近所の語りじさ、語りばさといわれる人、もっと近くは家庭内で、親や祖父母が子どもに語るというように、声をとおして伝えられる形を保ちながら、長い歴史をへて今に続いています。(もっとも今はずいぶん少なくなってしまいましたが・・・。)
昔の人は、言葉には魂が宿ると考えており(言霊)、目には見えない魂(心)を声にすることによって伝える力を与え、魂の祈りや願いを歌や物語にしていきました。これが文学のはじまりです。 声の言葉には、それを発する人の祈りや願いがこめられた魂が宿り、そうであるがゆえに、伝承される力があったのです。
一方、文字として書かれた言葉には、自然に口をついて出るという力は働きません。記憶のなかに住み着いて、人から人へ自然に伝わっていくという力は働かないのです。
本のなかに眠る声をよみがえらせる読み聞かせ
読み聞かせは、文字に書かれた言葉に声を与え、いわば本のなかに眠っていた言葉に息を吹きかけ、ふたたび命を与え、生きた言葉としてその命を聞き手に伝え、感じさせる行為なのだと思います。
ながらく福音館書店で、子どもの本の編集にあたっていた松居直氏は、その著書『声の文化と子どもの本』(2007.10.25 日本キリスト教団出版局)で、
子どもたちに絵本を読んでやることは、文字に移されて息づかいを失いがちな書かれたことばにふたたび自分の息を吹きこんで声のことばとし、ことばの命を子どもに伝えて感じさせ、生きたことばの体験をゆたかにさせるためです。(第一部 声の文化と子どもの成長 自分の中にいる子ども P47 L1~3)
と述べています。
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また松居氏は、『松居直のすすめる50の絵本』(2008.11.10 教文館)で、
絵本の文は自分で読む場合は、まず意味を知ろうと考えますが、読んでもらうと、文の中にひそんでいた音がよみがえって声となり、静止している画面に動きや生命を与え、いきいきした物語空間を創造します。(絵本の世界へようこそ 類まれな傑作『もこもこもこ』P13 L7~9)
ともいっています。
松居直のすすめる50の絵本 | ||||
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前回の「読み聞かせのすゝめ3 読み聞かせの効能」で、絵本は自分で読むと、どうしても絵と文を同時に見ることはできない、どちらか一方しか先に見ることはできない、といいましたが、読み聞かせで人に読んでもらうと、絵と文を同時進行で見ることができますし、さらに松居氏のいうように、絵本のなかにひそんでいた声、眠っていた声をも聞くことができ、読んでもらうまでは静止していた画面からも、動きや命ともよべるものを、物語内容を理解しながら感じることができるのです。
読み聞かせでは、絵本のなかに眠っていた声を耳で聞き、同時に絵の中に眠っていた動きを文の理解とタイムラグなく感じ、聞き手が絵と文を一体化させながら、物語世界を豊かに思い描き味わうことができます。これはひとり読みではできないこと。読み聞かせならではの味わい方です。
物語空間の創出
読み聞かせでは、読み手の声だけでなく、読み手がページをめくるタイミングが、微妙に物語のテンポを演出したりすることもあります。おだやかにゆったりした場面では、ゆっくりとページをめくり、ドキドキするような場面や、情景が一変する場面では、勢いよくパッとページをめくり、子どもたちをハッとさせたり・・・。
また、生の人の声のぬくもりに包まれる幸福感や、読み聞かせがおこなわれる場所、教室や図書館、あるいは家庭の一室のぬくもり、空気感なども、その物語空間の演出となり、物語とともに記憶に残っていきます。
読み聞かせでは、単に文を読み絵を見て理解するというだけではない、その場でリアルに感じられる、物語空間の創出を体験することができるのです。
フランスの哲学者で批評家のロラン・バルト(1915~1980)は「作者の死」(『物語の構造分析』花輪光訳 1979.11 みすず書房)という論文で、書かれたテクストは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物のようなもので、一枚の布が縦糸と横糸の交錯によって織り出されるように、多種多様な要素が錯綜してあらわれたものだといっています。
従来、物語のテクストにおいて、作者は絶対的な存在で、その意図するところを読み取るのが読者の務めのように考えられていました。しかし、物語のテクストをバルトのいうように「引用の織物」ととらえると、作者はもはや神のような存在ではなく、読者が、時間・空間・過去の文学・文化などが縦横に織りめぐらされたテクストを、どう読み取るかの方が重要となり、バルトのこの論考はその後「テクスト論」として、文学研究方法の大きな主軸のひとつとなっていきました。
物語の構造分析 | ||||
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テクストは、読者が読むことによって、内容に新たな結びつきを与え、意味を生みだしていくものであり、読者はテクストの共同執筆者のようになっていく・・・。
こう考えると、読み聞かせもまたしかりで、描かれたテクストである絵本を、読み手が読み、聞き手(子ども)が聞きく(読む)ことによって、テクストを織りなす綾が、さらに二重にも三重にも錯綜し、新たなテクストを創出していくことになります。
読み聞かせは、「聞かせ」という使役形の名称を与えられているため、聞き手はどうしても受け身の存在、一方的に「聞かせられる」という消極的な存在で、読書としては主体的でないものととらえる方も多いかと思います。
でも、読み聞かせの場にいてそれを聞くことは、自らがテクストを織る一本の糸となり、物語空間を創造する主体となる行為なのです。
読み聞かせの場は、無数の文化から織りなされてきたテクスト(織物)を、読み手が声を出して読むことによって、そのなかに眠っていた言葉に命を与え、絵と物語にいきいきとした動きを与え、聞き手(この場合第2の読み手といえる)がそれを聞く(読む)ことで、さらに新たな意味を生みだしていく、けっこうダイナミックな物語の創出空間なのだと思います。
それも、生の人の声のぬくもりや、語られる場のあたたかさという幸福感に包まれて・・・。
物語が心に残るとき、不思議と読んでくれた人の印象や存在感も、ともに記憶に残ることがあります。それは生の人の声による言葉には、語る人の心が宿っていて、その言葉を共有することによって、心が通い合う喜びを感じるからでしょう。
ヨハンナ・シュピリ(1827~1901)の『ハイジ』(1880)で、フランクフルトから帰ってきたハイジが、ペーターのおばあさんに、讃美歌の本を読んでやる場面があります。
盲目で病床に着いているおばあさんは、長らく本を読むことができませんでしたが、ハイジに古い本を読んでもらうと、その言葉を自分でも重ねて、何度も何度も繰り返します。
そしてその顔には、しだいに楽し気な望みの色がひろがっていき、それを見たハイジも、おばあさんの喜びに、自分が故郷に帰ってきた喜びを重ね、有頂天になるほど喜んでいきます。
「ああ、ハイジ、すっきりしたよ、ほんとうに胸がすっきりあかるくなった。ああ、こんなにたのしい思いをさせてもらえるなんて、ハイジ!」
おばあは、この歌がどんなに気に入ったか、しきりにくりかえし、ハイジはハイジでしあわせにほおをかがやかしながら、相手の顔を見守るばかりでした。おばあのこんなようすははじめてで、いつもの老いぼれ、しおれた顔とはうってかわり、いかにもたのしげに、感謝にあふれていたのです。まるでもう、すでにあらたな目をさずけられて、美しい天の園生をかいま見ている、とでもいったふうでした。(『ハイジ 上』J・シュピーリ作 矢川澄子訳 2003.3.20 福音館文庫 P281L7~13)
盲目のおばあさんが、ハイジの声を聞き、ハイジの声の言葉に自分の声を重ね、見えぬはずの美しい天の園生を見る。本のなかに眠っていた言葉に、息を吹きかけ、命をあたえ声の言葉として共有することで、本のなかの言葉に感動すると同時に、ハイジが本を読んでくれたこと、ハイジが再び故郷に帰ってきたという喜びを共有し、心を通い合わせ、喜びを二重三重にもしていく、美しく素敵な場面です。
ハイジ(上) | ||||
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人の声で読み聞かせをすることは、本の中に書かれた眠れる言葉に命を吹きかけ、物語に生き生きとした動きをあたえ、人の声や語られる場のぬくもりを感じながら、読み手も聞き手も言葉を共有して、物語空間をともに織りなしていく、主体的な読書経験であり、文学的創造行為であるといえるのだと思います。
ひとり読みとはまた違う、生きた心の通い合いを生の声をとおして感じ味わうことのできる読み聞かせ。やっぱり、ぜひぜひ小さな子どもだけでなく、大きくなった子どもにも、もっともっと進めていきたいなと思っています。
次回は、いよいよ読み聞かせの実践編!「本の選び方」についてお話しようと思います。
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